ほっとコミュニケーションなごや

監理技術者(全体・cool)×介護福祉士(個別・hot)目線で観た雑記帳

年の始めに思うこと・過去の振り返りとこれから

人生初の市外での暮らし

それは20歳初め頃かと思います(因みにに19641年12月1日生まれ)。

地元名古屋から出たことのない私が入社研修のために長期千葉の我孫子の寮(マンションの1室)に先輩と同期(2人)の計5人住まいが始まりました。

大手通信メーカーの電話交換機と言われものを製造、設置、メンテナンスする部署の子会社の社員と一緒に研修に加わりました。

場所は千葉県、東北、横浜と各サービスステーションを転々としました。最後の横浜で寮長と言われ自称会社の御曹司と別会社の社員3人とここでも5人住まいでした。

酒盛りの毎日

寮長が酒好きで毎晩近くのスナックで酒盛りで3人が寮長に胡麻をすっていました。私はと言えば高卒で胡麻をすりも酒も知らずに居てそれが寮長に気に入られたようでした。

土日の休みは寮で酒盛りをして、いつもはスナックもママさんが適当に薄めていたのを知らずに樹氷を原液のまま飲んで、暫く意識不明になって気づけは4人の心配そうな顔がありました。

これが酒嫌いになった理由です、その後にスナックに行ったかどうかは記憶にありません。

初恋

横浜の研修が終わると最初に居た千葉に戻り山登りが趣味の女性に初恋をしたりしました。よくあるパターンかも知れませんが人恋しくなってきました。

ボランティア初め

社内(工場)で耳の聞こえないろう者と出会い社内手話サークルに入会するもメンバーは学会員で寮に勧誘に来たりしました。地元の手話サークル「手賀の会」に入ってたり全国組織の全国手話通訳問題研修会の全国大会で北海道に行ってここでも恋に落ちましたが一晩メンバーとスナックで語って終わりました。

今考えると地元から離れて不安定になっていて優しい言葉に飢えていたように感じます。手話ボランティアから始まり名古屋に戻って要約筆記等サークル「まごのて」に入った青年の家の合宿ではメンバーと熱く語ったり、点薬サークル「大樹会」で活動しました。

最後は盲ろう者ガイドヘルパーを得てボランティア活動は休止しました。三重県玉城町の手話勉強会では長期出張の中で通わせて頂き送別会の思い出は忘れられません。

宗教に引かれて

千葉に出張時代、街中を歩いている時にアンケートに誘われて一泊研修に参加した事もあります。 また我孫子駅までパネル展示している団体を見て聞いたら名前から宗教団体と知りましたが興味があって書籍を購入しました。更には柏にある民間の集会場で信者さんと知り合いました。

それが高じてその教団に出家しました、半年間は奇しくも地元名古屋の教場で学んでから長崎の諫早に実地研修に行きました。そこで猛烈に出家を止めたくて戻って来ました。

地元名古屋の手話サークルで強烈体験

当日住んでいた北区の手話サークルに通い初めました。そこで強烈なキャラを持った故岡泉さん(男性)と出会いました、この方はろうあ者主体の当たり前の手話サークルと創ろうと、当時は斬新なろう者が手話勉強会の講師になったり、盲ろう者を招いた勉強会をしりその大会にも参加しました。

晦日に宣伝チラシを作ったり新しい手話サークル「自主手話サークル」の運営をメンバーと夜通し語ったりしました。私より10歳上で会員からは10年後の自分の姿と言われ嬉しかったことを覚えています。

恩師(大切な友)の突然の他界

一時仕事で忙しくて離れていましたが、落ち着いてもう一度活動したいと思った時にリーダーは心筋梗塞の病死と聞きましたが、予想外の出来事に強い喪失感を味わいました。

落ち着いた頃にボランティアサークルを巡りましたが、そんなにキャラの濃い人には巡り合わずにサークルはサークル、私生活は私生活と割りきった方が多く貴重な出会いを実感しました。

障害者運動の団体との巡り合い

そのリーダーが健在中に名古屋に授産施設(障がい者に仕事に就くために技術を教える施設、今は就労支援施設)の職員募集を聞いて転職しました。

障がい者にどうのこうのではなく、障がい者と共に生きて働く場づくりの運動をしている「わっぱの会」の主旨と他の施設との違いが分からずに数年で退職しました。

今は新人や中堅研修がありますが当時は人数も少く授産施設でパンを作っているメンバーが障がいを持ったメンバーの介護を行っていました。私もぶっつけ本番で車椅子の方を車で送迎する途中で食事による仕事?!があってあたふたした覚えがあります。

やってみれば車椅子方の指示で何とか自宅まで送り届けました。その後の関わりは会の賛助会員として関わっていて、いつしか定期会報も届かなくなり記憶から消えていました。

まさか50歳近くになって20歳半ばの職場に復帰出来るとは

多分2013年か2014年に授産施設の施設長だった方から電話があって、その後に開設された「訪問介護」のアルバイトのお誘いがありました。

数十年前の事を覚えて居てくれたことに感動をして面談を行い金曜日夜の泊まりと日曜日の余暇の介助を初めました。

まさか介護の仕事を始めるとは

当時は全国各地の工事現場を回って現場管理の仕事をしていましたが、人生どん底を経験するトラブルに遭遇して職場を数回変わっていました。

どんなトラブルがあってもまさか建設業以外の仕事をやるとは思っていませんでしたが、出張費のお金があったので介護資格の初任者研修を受講して取得しました。

そんな中で2014年11月に入った人生初の現場職人(作業員)の仕事で入った会社が、その前の仕事同様にそれまで体験しなかった上司とのトラブルが発生していました。

年末に限界を越えて上司のトラブルを起こして拠点長に進退伺いをして自分の正統性を認められると思っていたのが、まさかの目の前の上司に確認があって「本人が望むなら」の一言で試用期間の退職が決まりました。

年明け2015年1月からは介護職場に勤めることが確定してからの出来事でした。

静かに介護職で人生を終えようと(笑)

自分の人生を振り返った仕事を見れば全国周りで転々するのもどうかと思って地元の会社に入り自宅からの通い勤務を望んだらまさかの2ヶ月で退職。

そう言えば一度官公庁の現場管理仕事から民間の管理仕事に入ったら長くは続かずに今思えば「1企業の社員でありながら国民のための公共工事」が当時の使命だったように思います。

2015年からは「介護」が使命に変わったのか、大きな視点からみれば共通点があるかも知れません。

人生二度目の転機

何かで読んだ記事で佳世さんに興味を持ってお会いしたのが、栄にあった虹の和リリアンでした。リリアンことは知らずにでした。

初対面の私に佳世さんは今度もちのき広場でイベントをやりますが、一緒に参加しませんか?と言われ驚きました。

だって普通は初対面ならどんな人かを聞いたり感じたりしてから話す内容なのに、ゆり先生を紹介してもらい「それいいね」と言われました。

今思うことは「人を信用している人」なんだと感じたとようです、もしかしたら人を見ぬいていなのかも知れません。

更に「何がやりたいですか?」と言われ二度びっくり、普通はお目付け役の人がいて人員配置を割り振るものと考えていました。結果的にその人がやりたいことをやるのがイベント成功の鍵かと実感しました。

がしかし任せきるにはよほど強く人を信じる気持ちがないと出来ないので、疑心暗鬼と不安で生きる世界の救世拠点になり得たと思っています。

二回目の屋内イベントが終わり、三回目のイベントを楽しみにしていたところにリリアン閉店の話しが耳に入りました。

過去のトラウマを越えて、居場所に近いものとコレと感じた所が無くなってしまいました。

私の役割について思うこと

何故かこんなパターンが多いです、星読み的には創造と破壊(新生)の時期の団体や人に出会いやすいのは分かっていますが銀河鉄道999メーテル同様に終着駅到着はしのび難く途中駅での下車を内心望んでいます。

私の役割はもしかしたら、前の旅(出来事)を次の旅人に伝えてより完成に近づいていくことでしょうか?

人との旅(人生)に終着駅があるのが分かり、経験すれば人に優しくなれます。何度も経験することでこの人にはどう伝えたら限られた旅を最高に出来るだろうかそんなことを考えながらかけがえのない大切な出会いと貴重な時間を大切にしたいと思っています。

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