ほっとコミュニケーションなごや

スピリチュアル的な内容や介護/福祉をメインに感じたこと、SNS記事のストックや「つぶやき」、画像投稿しています。

我が人生を振り替えって

6月15日(土)から4日ぶりの投稿になります、最近は何か静か人生を向かえる予感がしています。

これまで大きく分けて4つの区分がありましたので紹介します。

学生時代

小、中、高校と進んで就職しました。中学から高校(工業工業の電気科)は就職予定から突然進学で周りを慌てさせました。

電話工事屋さん時代

高校から就職する際に「電子交換機」の技術者募集を見て何か興味を持って応募しました。これは電話交換機の仕事でこれまで人手から機械式になって電子式になり始めて、時代の最先端の技術者募集でした。

会社は愛知電設で千葉社長です、会社は名古屋市東区の狭い建物の2階にあって1階は整備工場でした。4月から研修として数年千葉県我孫子市にあるNEC我孫子工場を中心に研修と聞いてびっくりしました。

会社はNECの子会社のNECシステム建設と言う工場部門の子会社です。NECの親会社から見れば孫会社でした。

我孫子では電子交換機の修理技術や品質管理を学び、雪が降る季節に東北、横浜等と関連施設を点々としました。

横浜では3人が一部屋で住み、大部屋に親会社の社員が寮長をしているアパートで生活することもありました。何故か寮長に気に入られて毎晩先輩4人とスナック通いで、休日にアパートで酒盛りをしている最中に樹氷を自分の限度を越えて飲んで気絶してからは酒類が駄目になりました。

各地へのローテーションが終わり我孫子に戻った時は、それまで余裕が無かったのが落ち着き人恋しくなりました。

ボランティアのきっかけ

時間関係は曖昧ですが我孫子工場で働く聾唖者の手話に興味を持って社内の手話勉強会に参加しました。地元の手賀の会手話サークルに入会してNHKの手話コーナーに出ているメンバーと合いました。

その後に手話熱が高まり全国手話通訳問題研究会に入会して北海道集会参加は思い出深い思い出です。

これがこの後の要約筆記、点訳盲聾者ガイドヘルパーにつながります。

宗教に興味を持って

時代背景もあると思いますがビデオセンター(後に統一協会)の内容の記憶は無いのですが1泊研修に参加したり、駅前でパネル展示にやっていた「手かざし」に興味を持ってたまたま購入した書籍が「世界真光文明教団」で柏連絡所を訪ねました。

話しによると我孫子で行っていたのはここの教団ではなく多分「崇協真光」ではないかの話しを聞きました。何となくいい雰囲気なので通い続けて月1回は上野にある道場参拝にも行きました。

いつの間にかその教団に出家する事を心に決めて両親に伝えると、以外にあっさり紹介されました。出家のための面談で道場幹部と車で中伊豆にある当時は山道の上にあったミロク神殿に2代教え主様と面談、合格しました。

その後は地元名古屋にある虹ヶ丘の道場の1階の訓練部で人数の関係で半年か3ヶ月単位で各地の道場に実習と訓練部での学びがありました。

私の実習先は長崎の諫早道場でした、夜行列車では同期と初めての実習で夜遅くまで話していました。長崎方面での祭(合同周年祭)を終えると同時に訓練を降りたくなりました。

配属先の幹部さんと相談して一度訓練部に戻って、そこでゆっくり相談することになり結果は一般組み手になりました。訓練部も実家も同じ名古屋で手間なく帰省?!しました。

北区にある城北道場の向田道場長の元で青年部長の役を受けました。城北道場から教団分裂事件があった虹ヶ丘道場に本部からの辞令で移籍しました。

その後落ち着くと道場は閉鎖されて、北区の稚児宮通道場(現在は閉鎖)と名古屋駅前の森ビルオーナーが道場長の新名古屋道場の多くはこの2手に別れました。

新名古屋道場はその後に道場長の主旨返えのために、新天地を苦労して久屋大通駅近くのマンションに名古屋道場として移籍しました。

名古屋市内に教団施設が多に中村区に豊国道場があって合併の話しが過去からありますが投稿時点では未定の状況です。

仕事も同じ会社だったと思いますが、我孫子の研修の経験を生かしてNECの名古屋サービスセンターに配属されました。当時は新栄にあって大曽根に移転されました。

暫くは修理品に囲まれた部屋の机で修理業務をやっていました。

話しは少し変わります。 北区に戻った時は北手話サークルの小松代表と新しく自主手話サークルを立ち上げようとした故岡泉さん(男性です)の2つのサークルがありました。

その岡泉さんから北区おおぞねにわっぱの会が授産施設ワークショップすずらんを開所するので職員募集を聞いて、応募して採用決定後に退職しました。

わっぱの会の事を良く知らなかったのですが福祉施設ではなく、当時は障害者差別と闘う運動体でした。思い描く福祉とは異なり、元号が平成になった約1年半後に退職しました。

さすがに二度の退職では元の会社は無理で、大林専務と数人の社員で立ち上げた新しい通信会社・東洋システックで業務はNECの子会社の東洋通信工業に出向して屋内の電話工事を行っている会社に就職しました。

卓上の修理仕事から現場仕事での大変さもありましたが、休日アルバイトで現金が入ったり遠方にも工事で出張して忙しい毎日でした。

そんなある日に予期よぬ結婚の話しが持ち上がり、生活費の関係で社長と話しましたが将来構想は別として現状の孫会社と他の直受けの仕事ではこれ以上の給与引き上げは難しいの判断で転職しました。

工事現場管理時代

新しく応募したのは「現場の施工管理」でした。最初収入メインは詳細は分からずに現場作業の延長位に考えて、何か面白そうなので応募して面接で駄目なら次くらいの気持ちでいました。

面談は通過して名東区にある中光(ちゅうこう)起電システムに就職しました。仕事内容は松下電器産業(現パナソニック)の工事協力店として建設省(現国道交通省)や道路公団(NEXCO)、下水道事業団での現場管理業務です。

当時はワープロが普及当初で書類はカーボン用紙の複写式で1文字間違えたら書き直しでしたが、暫くすると書類が使い回せるワープロに変わりました。

図面は手書きで学校で習った製図板使用でした、役所の厳しい指摘に泣きながら運転した事を懐かしく思い出します。同世代の同僚が計3人居て時には泊まりで書類を作成したりしました。

近々の状況は1人は退職して、もう1人は親会社でやっている感じです。建設業の法令改正で現場業務は社員がおこなう事が努力から義務になって仕事がなくなりかけました。

会社は3つの部署があって1つは民間部門で数人の担当者、もう1つが通信部門を数人で担当者がいましたがその後に親会社の指示で独立して他府県に移りました、送別会の時に私の過去の経歴を知っていれば最適なので引き入れていたと聞きました。

3つの公共部門閉鎖が濃厚になった時に親会社(元から見れば子会社)に面接のみで転職する段取りを社長がつけてくれました。送別会として3人のメンバーと社長で仕事終わりに車で出掛け下呂温泉で1泊まりして翌朝車で帰社しました。

個人経営店でオーナーのワンマン社長でしたのでいい意味でも悪い意味でも社長の一存で物事が決まりました。そこでは民間部門の終始は厳しく支えている通信と公共が無くなると会社は危ないかも知れないの本音か分から事も聞きました。

夢が忘れられなく通信会社に転職するが

せっかく上の会社に入れてもらいましたが、通信工事時代が忘れられずに、NECの系列会社に応募して年内に内定しました。会社には担当件名が終わったら転職する主旨を伝えて退職届けを提出しました。

年が明けるとNEC内での計画変更があって出向社員が復帰するので、補填予定が不要になって過剰な状況のために内定が取り消しになしました。

奈落の底に落とされた気分です、上司に状況を伝えましたが辞表は既に人事に渡って取り消し不可でした。以前のオーナー社長時代なら社長の一存で取り消しも可能でしたが(泣)

やむ無く仕事を探すと自宅近くで現場管理の娯楽施設の電気工事店の求人があり、応募して仮採用になりました。

入社後2ヶ月すると役員から自宅まで送ると話しがあって途中で喫茶店で話しがあると立ち寄りました。 話しによると職人からの評判が悪いので試用期間なので採用取り消しと言われました。

そこで教えてもらったのが、以前は公共工事で職人との関わりにはスタンスがあったと思うが民間は民間で各会社に寄ってスタイルがあるので、それを受け入れてもらわないと困る。との意見を伺いました。

突然の役員の話しで行き場のない焦りを感じて当時は実質社長の専務に直訴しましたが役員の話しを現場からの職人からも聞いているので、今後の糧として生かしてと状況変化はありませんでした。

どうしても諦め切れずに家族経営で息子が専務で親が社長でしたので社長に直談判しようと会社が見える公園で社長を待ちました。

数時間経つうちに冷静になって、役員が社内でなくワザワザ自宅近くの喫茶店で告知したのか想像すると心配りかと感じました。社内には悪意を持つ方もいて役員は社員の1つのフロアですが、仕切りがないために丸聞こえです。

今後のための配慮ではと思い治して帰宅しました、後日荷物引き取りと挨拶を済まして退職しました。

行き先なや無い不安を感じる中で、愛知電設時代にお世話になった北原部長に状況報告をしました。

すると状況は変わって親会社(パナソニックの子会社で公共工事担当)に転職して暫くしたら、パナソニックの子会社を受け入れる会社を、元居た会社を孫会社化してサービス会社を作る話しが持ち上がったそうです。

オーナー社長は相応のお金で会社を引き渡し子会社の役職者が社長になるまで暫定的に元専務が社長になって、ベストタイミングで今ならここで働けると聞きました。

取り敢えず上の会社の意見も聞いたようですが、現場を終えての円満退社で実積もあり経過も聞いているので採用は問題なしで即業務に就いてほしいの話しがあったようです。

中部地方の高速道路のETC改修工事を3年計画で受注して人手不足の時期でした。早速必要書類を作成して一宮の現場事務所入りしました。

事務所では愛知電設時代の同僚のHさんが親会社で総括の現場責任者になって、その時は子会社のS専務で採用して頂いた方は一宮から四日市管内のサブ現場責任者をされていました。

採用された恩も忘れてSさんの一言一言が口うるさく感じました。現場責任者を長年やって同種の仕事で格下になった感じでSさんが実力も意見も適切に関わらずに反抗心が芽生え言動にも表れました。

それを感じた総責任者のHさんが多分事務所の雰囲気を変えようとして「飯田の現場にサブ責任者として常駐しないか?」と話しがあって舞い上がりました。

本来なら直接の上司のSさんに報告相談すべきでしたが、独断で了解しました。上司Sさんと言えども表だって総責任者の打診には反対出来ずに何も言いませんでしたが休憩室で意味深長の「大丈夫か?!」の言葉がありました。

飯田の担当が始まると、一宮の事務所から現場をコントロールして定期的に視察する予定が発注者の担当とのすれ違いからトラブルになりました。 解消のために現場常駐になりました、担当者は根っからの職人気質で書類より現場優先のタイプで役人相手の私には手に余る人でした。

その後に体制強化の理由で私と補佐で実力を持ったYさんが配属されました。悪く考えれば発注者がサブ責任者では力不足と判断と捉えるか、良く会社が私の負担を減らすために先方の申し出を理由に人を配置したとも考えられます。

当時は早朝から深夜まで勤務して名古屋から飯田の往復をして疲弊していました。帰り道に高速道路で物損事故を起こして中央分離体に運転席側をぶつけてミラーを大破しました。

普通なら自分を守るために無意識で左にハンドルをきって助手席が大破するのに、どんなに疲れて居たか今更ながら思い出されます。

事故は不問になり、現地宿泊の指示がありました。ここで気持ちを切り替えれば良かったのですがYさんは現場での管理の不備や甘さを写真付きで指摘されて、言われる通りですがシックリこずにストレスは溜まり続けました。

ある日の朝に会社のコンプライアンス窓口に勤務体制を投稿しました。夕方に社長から投稿の事実を確認されて内容から投稿者の所属と名前が分かって本社から事実確認があったと話しがありました。

翌日には孫会社の社員が子会社(上の会社)を飛ばして親会社に直訴した事が法的に正しい事をしたと当時は思っていましたがメンツを潰されて多分管理上のお叱りを受けた上の会社から「直ちに現場引き上げ」指示がありました。

現場管理からメンテナンス部門への移動願いも空しく、過労勤務を盾に社内勤務になりました。

社内には4つの部署があり警察管制(H部長)、民需(O部長)、高速道路(K部長)、所属している公共(H部長兼任)です。

警察、高速は会社合併をして部署です。公共部門は上の会社からの指示で仕事がなくなり民需では受注したマクドナルド全国のPOS改修やクレジット端末の障害対応に同行しました。いつしかそれがなくなり現場管理前に行っていた警察管制にスキルを見て常駐の話しもありましたが数回の訪問で終わりました。

どうらや上の会社の役員が投稿の事を理由に私には仕事を出すなの指示が内々にあったそうです。100%出資を受けているのでそれが止まれば外の仕事がなくなります。

暫く社内の総務的な業務で館内の照明やフロアマットの点検清掃を行っていました。圧力がかかって外部の仕事がない外勤社員の在籍が厳しく問われました。

正論を言えば当たり前とは言え過剰勤務を親会社のコンプライアンス部門に訴えた事に対して会社はそれを理由に解雇や配置転換は表だっては出来ません。反面一足飛びされて泥を塗られた子会社の役員は孫会社の社員に悪意を持っている図式です。

直接「この先に仕事が回って来ないので、うちの規模ではその状況的に体力的に厳しいのですぐには行かないが考えて」と解雇通告とは違う形の苦しさを感じました。法的には退職の強要は出来ない状況でしたが強引に居残る選択は無かったので新しい場を探し始めまきた。

その辛い時期にスピリチュアルを知って、はづき虹映さんの「二週間で一生が変わる魔法の言葉(じゅもん)」の効果を実感してその世界に入り始めました。

人生初の派遣会社に入社

情報板メーカーに入って

退職職業安定所で求人を探すと新規事業で「技術者の派遣」だったかを見つけました。派遣会社リライブルに転職を決めました。

採用は最初の派遣先が決まった時点で契約をして、派遣先がない時は自社工事の担当者として業務を行う話しでした。

1件目の派遣先は電気工事店で電気の資格はあるものの現場作業経験はなく、単独作業は無理の話しで見送りました。

2件名は大手情報板メーカーの名古屋電機工業で新規顧客で最初の面談に訪問しました。資格と経験共に合致して採用になりました。出向ではなく転籍になり保険も給料も全て名古屋電機工業からの支払いに形まきたした。

1年目の担当は岡山国道事務所とトンネル防災(気象観測装置)と情報板3機設置でした。これまでになく紳士的かつ協力的は係長でした。

通常国道交通省の職員と言えば業者からは殿様扱いが普通でした、時には指定時間に送迎もありました。現場立ち会いは山奥でしたので、てっきり委託先の技術者かと思ったら係長自ら現地に来られて、確認事項がスムーズに行きました。

工場から設計者が監理技術者として登録されて、現場代理人との兼任に比べて問題解決も早く発注者にも好印象に受け取られて工事点数が加算されてのいい循環がある会社です。

2年目は冠水監視システム工事で発注者は始めての兵庫県土木事務所でした。受注当初は機器と配線の更新(取り替え)工事でしたが、機器と表示板の間は架空配線の予定でしたが電力会社との取り合いによって新しく埋設配管になって当初予定されて居なかった土木工事が発生しました。

県から分離で土木工事を打診しましたが、工期の兼ね合いで適切な業者選定が難しいので設計変更で工事追加になりました。地元住民には気を使いましたが工事告知チラシの関係かトラブル無しに終わりました。

昼は現場の飲食店で地元情報に収集したのも効を生じたのかも知れません。

3年目は対応が難しいと言われる大阪の阪神高速道路の高速上の気象観測設備の更新の担当になりました。直前に別の担当から変わりましたがこれが運命を変えるきっかけになりました。

難点と言われるのは、施主の大阪人気質と独自の風土、そして土地勘の無い大阪の高速道路でした。

当然ながら発注者は受注者が現地を把握している前提で話しますが、土地勘が無ければイライラします。最初は大阪営業の技術者に同行してもらいましたが土地勘の他に大阪弁の有無もある感じを受けました。

同じ事を同行した大阪の社員が大阪弁で話すとスムーズに行きますが、標準語では上手く行きません。これはどこの地方でも起こるので早く顔見知りになるしかありません。

そんな中で着工の前年の12月から大阪事務所の勤務になりました。住まいは歩いて10分程度で最寄り駅より近い会社指定のレオパレスです。

準備として高速道路の交通規制計画ですが、一通り高速道路を走ったのですが運転手1人で途中で図面が見れずに折り返しで一般道で見るくらいでした。

準備をして同事務所の規制担当者と話しをすると、事故防止とは言え厳しい事ばかりでした。経験では他の官庁は別として同一発注事務所なら厳しく言っても落とし処があって工事開始までに完了します。

営業者の技術者に聞くと規制担当者は高速隊に持って行けば一発で通過するほどの信頼と厳しさがあって、官公庁では重要事項とされる「工期」も建前でなく本心から「安全第一」の方でした。

やっと、その技術者の「早めの対応の意味」を実感した時は既に遅くて部署責任者に状況報告と方向性を相談しました。

結果は発注者に精通したO主任に付ける事になりました。今は前にそんな事があったことを思い出しますが当時は予定時期に工事開始で、それ処ではありませんでした。

O主任が運転する中で図面を持って助手席で現場状況を説明と規制の注意事項を聞くと同時に頭に入れました。

O主任のアドバイスで本工事の規制図通過に時間が掛かるので二度手間になるが短時間の調査用の規制図を作成して通過後に改めて本工事用の提出の引き上げ方針で、規制担当者が本工事用を作成すれば1回で済むのにと言われつつ了解を頂きました。

O主任の協力の元になんとか警察協議が通るまでになりました。夜間に私単独で工事業者同行で規制を張って現地視察しました。

高所にある機器撤去は場所は地上からのみ確認して、撤去再取り付けがある所は高所に登っての確認作業でした。これは手抜きではなく効率的な調査のつもりでした。

調査が全て終わった後に発注者に報告に行くと撤去した後の開口部はどうするか?とか現状はなど半民半官らしい質問を受けて戸惑いました。図面を要求すると探すが、そこまで行うのが現場調査ではないか?の指摘を頂きました。

会社に戻りO主任にその話しをすると、撤去場所でも高所作業車を持って開口部等の安全対策を調査するのは当たり前で業者も知っているはずと言われました。

当時は逆ギレしてO主任に知っているなら事前に教えてもらうか、最初の1.2度現場立ち会いをしてもらえば再度不要な再規制費用は発生しなかったと思いました。

結果は昼間現場を通過して本工事でも対応可能や図面判断可能は場所はそれで承認を受けて、どうしても現地確認が必要な最低限の場所を発注者と確認して再度夜間規制を行って調査しました。

規制は予備もあるので何とかなりました。そんなこんながあって結果は以外にも可能の工事は阪神高速道路の通行止め期間に行い規制をかけるのは必要最低限になりました。

通行止め工事の期間と範囲は既に決まっているので、事前に範囲外の箇所だけの工事及び調査だけ行えば、良かったのにと強く感じました。

暫くすると夜間作業が始まり出勤時間もおそくて大丈夫になりました。その関係かアパートの鍵を無くしたり物忘れが多くなり感情的になりやすくなりました。

o主任がサブで付いていますがサポートと言うより駄目だしが多いのでサブではなく、主でお願いしたいと大阪工事の責任者に伝えましたが却下されました。

精神的な限界を迎えて転籍元のリライブルの営業と話しをしたり、大阪に訪ねて来た当時の社長に状況を伝えたりました。

精神科で環境適応障害を診断診書を受け取り、大阪勤務の解除をして名古屋勤務を要請しましたが拒否されて転籍自体が解除になりました。背景には大阪工事の課長から辞令で工事部長の内示があって1課長ではなく本社工事部長としての権限を持っていました。

建設業法では公共工事の監理技術者変更には本人の死亡、病気、退職等第三者が見て妥当性が必要でした。精神疾患も病院の一瞬ですが会社の管理体制が問われ兼ねずに「退職」した選択肢が無かったのかもと当時の工事課長の苦悩の一辺が分かった気がしました。

無線基地局の現場管理になって

12月末に有給含むてリライブルに復籍して1月から名古屋駅近くのsoftbankの無線基地局の施工管理会社に出向になりました。そこで内定取消しになった会社からの出向者も在籍していました。

朝仕事が始まると工事会社との書類打合せ、電話やメールで大忙しの状況です。1月に出向復帰する方の変わりらしいです、その方から業務の流れや引き継ぎを受ける予定が実際は横から見ているだけでした。

途中で一部業務をさせてほしいと伝えましたが、そんな余裕もなく一抹の不安のまま2月を迎えてました。1人になるとなんやかんやと分から無いことが発生してどうしようも無くなりました。社内業務だけでなく現場の安全巡視や完成検査の同行があって終電まで残っても仕事が溜まる一方でした。

業務が落ち着く18時以降にリーダーに状況を報告するの現状が誰にも分からように区別しておくよう指示がありました。そうするの定期的にリーダーからそれぞれに適したスタッフに振り分けて片付ける方法で解消していました。

土日は休日出勤は厳しく禁じられていて、早朝出勤も禁止ですので早朝にならないギリギリの時間に出勤してスキル向上のために全く知識の無かった無線基地局の自習を行いました。市販の書籍には概論しか記載がなく社外秘の情報は社内しかなくて持ち出し禁止です。

未経験とは申し訳なく思っている中で2月末の懇親会でリーダーからの話しで私の出向期間が1月~3月までと決まっていた事を知りました。どうやら前任者を戻す為の後任者を年度一杯配置する事で決まり私が数合わせの感じでした。

そんな中で3月をむかえとリライブルから3月一杯に新しい出向先を見つけないも解雇するの電話連絡がありました。3年前の社長も営業も退職して社内仕事の事も口約束でしたので確証を示せませんてした。

民間工事の現場管理社員に戻って

太陽光発電設備の施工管理

ネットの求人サイトで次に仕事を探しました。これまでの経験した管理物件で特殊な「太陽光発電工事」と「下水処理の電気設備」の求人を探したら当時ブームになっていた「太陽光発電工事」の全国規模のパネル卸しの販売店が工事部署を開設して技術募集があったので応募、採用が決まりました。

社名はXsol(エクソル)です、1年目は伊勢神宮遷座でおおにぎあいの伊勢で地面に太陽パネルを設置する野立ての案件担当に決まりました。

土木工事期間の数週間だけ現場常駐して土工が撤収して電気工事になったら管理者混みの下請け電気工事店に任せて定期的な安全巡視と各種検査確認で現地に立ち寄る予定でした。

土工工事もあと数日のところで現場の右半分は基礎工事で土工、左半分が基礎工が終わった基礎にパネル搬入を行っていました。右側の基礎工の職人がうずくまって腰に手を当てていました。最初はぎっくり腰かと思っていましたら重機との接触事故があったらしいです。

当人の顔色が悪くなり強烈な痛みを訴えたので救急車を呼びました。救急隊員から「病気ですか事故ですか?」の問いに「事実確認中ですが事故の確率が高い」主旨を伝えました。

救急車が病院に向かう直ぐあとに車両が入って来たので私はてっきり労働基準監督所かと思って新規入場やKY、作業指示、施工体制台帳、施工体系図などを提示しました。車内でこれらの書類や現場状況を説明すると、先方から「聴取した範囲では事件性は無しと判断しますが負傷した方からの訴えが無ければ今後も事件としては扱いません」と言われました。

その車内が場内を出た後に冷静になって救急隊員が事故と判断した場合は警察に通報があって犯罪性の有無の確認に警察官の訪問が有ることを思い出しました。

そもそも連絡もしないと労働基準監督所から職員が来ない事を思い出して所轄の労働基準監督所に速報を入れてました。その後に会社の上司に報告を入れると安全管理者と現場に向かう返事がありました。

早速提出する書類の整備と時間関係をまとめました。午前中に連絡を入れて昼過ぎに数人の労働基準監督所の視察がありました。視察中に会社から上司と安全管理者が到着して合流しました。

職員から数日以内に詳細報告書とその後に元請けから下請け全ての事故対策(改善)報告の提出を求められました。職員を見送り明日土曜日の作業は中止で安全会議開催となりました。不運は重なるものでレンタカーをぶつけて帰宅した上司に報告、更に安全担当者に報告を行いました。

物損なら警察に届けて事故証明の発行とホテルのポールでしたのでホテル側に損傷や損害の確認をすると現場確認して損傷はないので問題なしの話しを頂きました。あとは警察官の到着を待って現場検証を受けて休みました。

現場での必要な処置が終わると、会社から来た二人を載せて名古屋営業所で提出に必要な書類づくりに帰る前にレンタカー店に立ち寄り物損の話しをしました「損害が起こった時は発生者から実費精算するように会社から話しが出ている」と聞き更に元気がなくなりました。

何気なく同乗の2人に話すと車両事故の報告書提出義務はあるが損害を本人に負担させることはないと聞いてレンタカー店と交渉をお願いして、実費負担の話しはなくなりました。

もし1人のタイミングなら自己負担していた出来事でした。何度か労働基準監督所に通って事故対応が完了しました。事故の関係で電気工事も元請けが常駐しないと何かの時に労働基準監督所の査察があった時に印象を悪くするの理由で現場常駐が数週間から数ヶ月に伸びました。

工事が終わり施主と完成報告をしている時に事故の話しがあり、お詫びと同時に負傷は快気に向かっていて責任を持って対応している主旨を伝えました。

最初の案件が工事部開設初の負傷事故になりました。この事故がきっかけで社内の安全管理体制が急激に充足されました。

2年目は数年着工が遅れた工場屋根上のパネル設置工事でした。現場には人が居る工場で施主からの要望で完工まで元請け常駐になりました。

昨年の事があったのでより慎重に行いましたが無事何事もなく引き渡しが管理しました。官公庁の現場管理時代に他社が事故を起こしてその波及で全工事が停止して全社が事故対応策を提出して受領されるまで休工になった時の発生会社の責任者が全社にお詫びするのがつらそうだった事を思い出しました。

民間でも労働基準監督所が出てくればそれなり書類等の負担が発生します。官庁工事は更に発注者が厳しいベナルテイな事故後の体制強化を指示されますので生きた心地がしないかもそれません。

事故後に責任者の交代があるのは周囲から交代指示があるのではなく心労からその後の業務が難しくなるからではと思えました。

2件名の施工中に上司から施工図作成等も含めて現場管理は下請け任せではなく、元請けから指示出来るようにならないといけない。と至極当然ながら私に取ってとても重荷になる方針発表でした。

その後に本社からの安全パトロール中に上司との口争いが元で退職する決意を決めました。全国の現場を転々とする管理職ではなく日帰り作業の技術仕事に変わりたいと思いました。

現場を終えて名古屋営業所に戻ると夜遅くまで仕事をしていたベテラン社員が居なくなり若手の事務社員になっていました。

技術職のメンバーに退職の話しをするとメンテナンス社員が今月、同じ現場管理社員が来月退職することになっていました。上司に退職の報告をすると再来月の打診があって了解しました。

新しい営業所長が相次ぐ技術職社員の退職に疑問を持って営業で出来ることを模索して貰えることになったのが置き土産かと思いました。

太陽光発電設備の現場作業員として

求人雑誌からこれまでの経験と電気の資格はあるものの実務経験が無いことを条件に面談、採用可能な会社を探したら「SANIX」が見つかりました。

当時は白蟻対策から太陽光発電工事を軸足に大きく経営方針を変えて技術者を大量募集している時期できた。面接は亀島近くの事務所で行いました、そこで勤務地は自宅から通りが「岐阜」でもよいかの打診があり大丈夫と答えました。

結果一次面接は合格して採用営業所の岐阜で二次面接がありました。その後に毎日の通勤を考えて思いが変わりました、勤務先を名古屋市内に要望しました。

人事からは二次面接時に要望を伝えるように連絡がありました。岐阜営業所での面接はいつも通り最低30分以上前に現地を見て一休みする時間で出発しましたが営業所が約束の5分前にも見つからず電話確認しましたが、全く見つからず30分後れの到着でした。

30分後れで更に勤務地変更を申し出たら二次面接不合格だと思いましたが、この先の要望として名古屋営業所勤務を伝えました。

結果は名古屋営業所採用になりました、11月入社で2週間は軍隊式でネットで噂される新入社員教育がありました。部屋に入る時はトイレも含めて掛声で入る、新入社員も含めてだったと思いますが廊下等であったら挨拶、事務所に入る時は体育会系のように元気でハキハキと発生、朝の掃除では髪の毛1本無いように清潔にする等でした。

SANIXスピリッツと言われグループで4つの地点を決まった時間で回るというものがありました。何れも厳しい発声はあるものの体罰や執拗な指示は無かったように感じます。

私が大変だったのは新入社員教育が終わって名古屋営業所に配属されてからです。朝は早朝出社で月1回休めればいい雰囲気でした。

何故かそこの電気の責任者から目の敵にされました。聞けばその方が社内で唯一取得している資格収得者が少ない2つの電気関係の資格を私が取得しているに不満があったらしいです。

合わせて配属先を二次面接前に変えたためにその責任者の面談を受けずに配属されたのに不満があったらしいです。更に現場経験が無いことを執拗に突っ込んできました。

これは職人の世界では仕方ないので技術を付けるべく黙々と単純作業をしては1つずつ難易度を上げて現場の職人からレクチャを受けていました。

ある日にNo.2と言われる若手の方と同行して現場周りをして、最後の訪問先に向かう途中で日が沈みかけて速度を上げましたがその事に文句を言われて車内は沈黙の時間を過ごして最後の訪問先に到着しました。

その方の作業の補助をして脚立を支えていると突然、「何もしないなら帰れ、やることが分からなければ聞け!」と激怒されました。そんな場面に営業さんが様子を見に来ました。

その方は「俺は1人で帰るから同乗させない、会社に帰るなか営業に同乗させてもらえ」と言われました。少し迷いましたが落ち着く様子は無かったので営業さんと帰りました。会議の関係で営業所には立ち寄れずに面接を受けた支店で下ろしてもらいました。

帰社する途中で軽い食事をして社に戻ると既に帰宅されて翌朝と会えませんでした。部門責任者にこれまでの不始末を詫びて進退を伺うと人事権は所長にあるので所長に確認するように言われて経過報告と進退伺いをしたところ引き留めがありましたが、部門責任者に確認すると本人の要望ではと受領されました。

試用期間内なので書類さえ書けば明日からの出社は不要になると聞きましたが、部門責任者さえ良ければの条件で年末退社が決まりました。

お世話になった職人さんには散々怒られたり残念がられたりしながら残った期間を過ごしました。

介護職員になりました。

先の会社で退社伺いをする前に数十年に縁があった授産施設ワークショップすずらんの施設長から「あなたが退職して暫くたった後に訪問介護の生活援助ネットワークでは介護のアルバイトを探している。無資格でも大丈夫」と連絡がありました。

その後に面談を行いアルバイトを開始しました、フルタイム(職員採用)のために再面談を受けて合格しました。その直是に可決された給与規定の変更で勤務期間によって手当て費用の減少があって2~3年後に100%に戻るがネックとなってフルタイムを保留しました。

その後に休み無しの勤務状況に不足分の生活費は何とかするので介護職に変わっていいとの了解は家内が出てからの出来事でした。

給与の最終確認と2015年1月5日(月)からの出勤確認が取れたあとからのアクションでした。