カウンセラー/ヘルパーkuniの日日是好日

スピリチュアル的な内容や介護/福祉をメインに感じたこと、SNS投稿記事の紹介

「共生・共働」を訴える団体は何故ブラック団体化するのか?!

私の生きて来た道筋は

facebookからの転機記事】

これは私の運命かも知れませんが、先々の見据えて行動される上司に出会うが職場から居なくなってしまいます。

離れる理由は色々なケースがあります、私が思うのに人の二歩も三歩も先を観て行動されるので目先だけの人に理由が解らない。多分商業高校前や囲碁の世界です。

人はよく解ら事や考えする事を面倒くさく思うようだ。徐々に煮え立つ鍋に入れられ蛙の時のように一般人は暖かいな~くらいの思い。

先を見通せる人はこのままでは危険と伝えても10匹中8,9匹が無視するか、怒ってしまう。 已む無く知恵ある人は単独で鍋から出て変な奴扱いを受ける。

もっとよく考えようよ!私が同僚から言われた言葉です、こんな私でも分かる事が何故解らないのか理解に苦しむ出来事が多い今日。

共生・共働を訴えれば訴えるほど逆になるのは?!

「反原発反戦」を訴えて目的とは正反対の方向に進むのと理屈は同じ「自然エネルギー歓迎、平和」がスローガンならいい。

無意識に否定形は通じずに打ち消されて、否定する事が現実化します。

【ここまでがfacebookからの転機記事】

コーヒーが冷めないうちに」を観て

この先を書こうと思いましたが、「コーヒーを冷めないうちに」を観て思いが変わりました。

これまで過去からの出来事からのウップンがきっかけと気づきました。

映画で一度観て印象に残っていたので、DVDで再度視聴しました。

4人の主人公の物語です。

・離れた彼とのやり直したい彼女

認知症の奥さんと向かい合う旦那さん

・妹と合うのを嫌がっていて、事故死されたお姉さん

・喫茶店の主人公女性の母親との意外の過去

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コーヒーが冷めないうちに - YouTube

物語で語られた「起こった事は変えれないが人の心は変えれます」が心に残りました。

私流に捉えると「過去の出来事の事実は変えれない、しかし意味付け・解釈は変更出来る。」です。

自分の事が人の記憶から消えてしまうのは寂しい事です、知的・発達障害の方の支援をいくら行っても記憶に残らない。それってキツイなあ~と思えた時もありました。

物語で語られた「行きたい過去に行って戻られなくなり、永遠にその時に止まって帰ってこれなくなる」が響きました。

どんなに素晴らしくて忘れられない過去でも永遠にそこに閉じ込めらるのはどうなんだろう?どんなに辛くても未来がある今を生きる事が大切で幸せかを感じました。

そんなん事から、過去に捕らわれネガティブな思いを持ち続けていた、この手の投稿はこれで最後になると思いますが紹介します。


「共生・ボランティア」を行う心の内には

「辛いことや満たされない毎日」があったりとフラットな0の状態に比較してマイナスのネガティブな時が多いように思います。

毎日が満たされてプラスのポジションの状態では、同じ場面を見ても「共に」とか「ボランティア」しようとは感じにくいように思います。

それは自分がマイナスのネガティブ状態から共に引き上げてもらいたい無意識の想いがあるように感じます。

ポジティブで富裕層の方も寄付したり時にはボランティア活動される方もいますが、今ある状態のお裾分けなり恩返しで自分自身に見返りは求めていないように感じます。

そこが大きな違いです、そう言った活動のトップをされている方の言葉尻に自分の能力を生かせないそんな心境から引っ張っている方も少なくない感じを受けました。

建前はそれが実現して組織が大きくなれば、目標を達成しやすくなると聞きますが、実は自分が認められない反映だったりします。

他者を思う気持ちからなら、団体の肩書きである代表や事務局長、理事長などの頻発する必要は無いように思います。

福祉団体の多くは「反骨心」から生まれて、反対の想念を持って怒りを原動力としています。怒りは時に物凄いパワーを発揮しますが、常に何か共通敵を見つけないと発揮されずに組織の存続さえ危なくなります。

人との共存を願いながら元々種が思っているのと違うので実も当然ながら違った、争いが現実したものになります。

昔は職業の選択肢が無く生まれた家柄で決まりました。 現在は原則自由な時代です、しかし障害の軽度の人はともかく中・重度の方は本人の思いに関わらずに親の思いで話せない本人の意思は無視されているのが現状です。

親は子供の将来や幸福を考えて精一杯の事がしているだけです。

職場が障害に応じた働き方に合った賃金体型になっていればいいのですが、同額ですと健常者に大きな負担がかかります。

これは仮に健常者の月収が20万円分の労働内容か20時間の労働、障害者が10万円分の労働内容が10時間の労働で全員20万円の支払いをすると、健常者が30万円分の内容か30時間労働で5割り増しの働き方になります。

これは「共に」ではなく「支援」している状態です。健常者と障害者が同じ比率の場合です。実際には職場以外に生活の場や余暇などで健常者か軽度の障害者の働きが職場以外に必要になります。

国から介護報酬の範囲で行うのでしたら、相殺するのですが完全に近い支援をするには組織からの持ち出しになります。直接売り上げている部門に対して間接部門は企業で言えばコスト部門です。

直接部門からお金や人が割り振られています、介護度が高い人ほど売上は下がります。介護部門は生産部門と違い日々の成果が見えづらい性格があります。

これらが積もり積もって「私がやらなくて誰がやる」の正義感や責任感になりやすく、正義感は人によって異なる物差しですので、正義と正義が集めれば対立や争いになります。

どんなに支援体制が整っても自らホームレスの生き方を選ぶ方もいます。それは人それぞれ深いものを持っていてその人の生き方なので否定出来ません。ホームレス支援としてその方を生き方を認めた支援をする位です。

障害者の中には人と関わらずに団体に属したく無い方も一定数いてもおかしくありません。また一団体が全ての障害の面倒を見れる訳ではなく忖度も働きます。

全障害者の面倒を見るのは国の役目かと思っておます。組織が大きくなるとメンバーの生活のために表だって国には反抗しにくくなり、小規模では力がないのが現状のようです。

弱きものに寄り添う事を生き甲斐にしたり、弱い対象を見つけて自分の存在意義を感じなくても、自立して心が満たされている人々が増える事が真の共生社会を創っていく基本のように最近は思えています。